巨こんの道鏡


道鏡は一介の坊主から、ついに太政大臣禪師、法王にまでのし上がった。また女帝の称徳天皇の寵幸に乗じて、宇佐八幡宮の御神託なるものをでっちあげて皇位までうかがった。
もし、それが実現していたら、万世一系という皇位もそこでストップであって、日本の歴史も今とはだいぶ違ったものとなっていたことであろう。
さて、道鏡とは一体どんな坊主であったのだろうか。その生年月日ははっきりしていないが、奈良朝後期で今から約1、200年程前に、河内国若江郡(大阪府下)の弓作りの家に生まれた。 そのころ弓作りの家のことを弓削氏といったので、弓削道鏡ともいわれている。
弓削氏は職制上からみて決して高い格式の家柄ではない。そのためか物部氏の子孫とか、中には皇胤説まであるというが、よくある後からの作り話であろうという。
とにかく頭は大へん良かった。努力型であってよく勉強もしたので、幼にしてそこらの評判にもなった。そこで弓作りには惜しいということで寺入りして仏の弟子になったのである。
道鏡は二人の名僧を師とした。その一人は、奈良東大寺の造営に大きな役割を果たした良弁であり、いま一人はその良弁や行基などが師仰いだ義淵大僧正である。道鏡はこうした名僧のもとにきびしい仏道修行を続け、 徐々に頭角をあらわすようになったのである。
さらに道鏡は、役の行者の開いたという葛城山にこもって3年間、難行苦行して禪の奥義を極めるとともに、如意輪法による呪験力を身に着けた。呪験力とは祈禱や霊力によって病気を治したり災危を免れるという呪術であり、 医学の幼稚たった当時は大へん盛んに行われたものである。
道鏡はやがて良弁の推薦によって宮中内の仏事道場の禪師になった。とのかく経典に明るく、所作にも勝れていたので、やがて天皇の信任知遇を得るようになったのである。
ここで、当時の天皇のことについてふれておこう。道鏡が宮中に出入りするようになったときの天皇は孝謙天皇(第46代)である。父は有名な聖武天皇、母は光明皇后であり、男の子がいなかったので皇位についた女帝である。
孝謙天皇は在位9年で皇位を淳仁天皇(第47代)に譲って上皇となったが、そのころ道鏡との関係が一段と深くなった。淳仁天皇がこのことを取りあげて避難したので、上皇は腹を立てて天皇を廃して、 再び皇位に復した。第48代の称徳天皇である。
皇位に復した称徳天皇は、今度は誰にもはばかるところなく道鏡を重用し、やがて太政大臣禪師、さらに法王に任じ、道鏡は国政の最高権力者となったのである。
そして起こったのが、九州大宰府の宇佐八幡宮の御神託のことである。宇佐八幡宮の中巨阿曽麻呂が、
「道鏡を皇位につければわが国は今まで以上に太平で豊かになる」
とのご神託を奏上したのである。
称徳天皇としては、道鏡を心から信愛し、寵幸はしているものの、さて皇位にまでつけてよいものかどうかと迷った。そこで今一度たしかめてみることにした。
その使者に選ばれたのが近衛将監和気清麻呂である。年齢はまだ37歳であったが、仲々しっかりした人物である。その出発を前にして道鏡からの使者がきて、手厚い届け物がよせられた。
清麻呂は宇佐八幡宮から帰ってきて、天皇や道鏡などの前でご神託を奏上した。
「わが国は開びゃく以来、君臣の分は定まれり。臣をもって君となすことは未だこれ非ず。天つ日継は必ず皇緒を立てよ。無道の者はよろしく除くべし」
これで、道鏡はぺしゃんこになった。このご神託事件は、その2年前に道鏡によって九州一円の神社を統轄する太宰師に任命された弓削浄人(道鏡の弟)太宰宮司の阿曽麻呂が仕組んだ芝居であったのである。
こうなっては道鏡の面目も丸潰れであり、怒った道鏡は和気清麻呂の官位を剥奪してその名を別部穢麻呂と改名させ、大隅国(鹿児島県の東部)に流した。
しかし、それから2年後に称徳天皇は病気で死亡。道鏡は頼みのバックアップがなくなって、間もなく下野国の薬師寺別当に追いやられて3年後になくなった。

さて、前文の方が長くなったが、標題の「巨こんの道鏡」のことである。
人間、男なら誰でも股間にいち物を持っている。いち物には大小があるが、道鏡のそれは超大型の立派なものであったという。笑い話にもしろ日本歴史の中で、股間のいち物のことで後世までその名を残したのは道鏡ただ一人である。
道鏡はたしかに名僧知識であった。しかし道鏡がそんな大物になれたのは、称徳女帝の寵愛があったためであり、それには股間のいち物も大きな働きをしたのである。
称徳が道鏡を寵し始めたのは孝謙天皇としての位にあったときであるが、その皇位を淳仁天皇に譲って上皇になってからは半ば公然というものになった。
上皇は天平宝字5年(762)の10月の近江国の保良離宮の出かけられた、体の調子が思わしくなく、足腰が痛むので保養のためであったが、そのとき道鏡はこれに随行した。そして道鏡は得意の呪験力で一発にこれを治したので、さすがの上皇もこれには驚いた。
保良離宮に8ケ月滞在したが、その間上皇が病気になったときは、簡単なものは呪術の暗示ですぐ治したし、むずかしい病気のときには肌を撫でさすり、指圧によっていとも手易く全治させた。病気を治すつぼを知っていたのである。こうして道鏡は上皇のお肌にもふれるようになり、やがて肝心のつぼにも手がのびることになったのであろう。
上皇は道鏡を寵愛する前には太政大臣藤原仲麻呂と十年近くも関係していた。仲麻呂はその後恵美押勝と改名したが、上皇のあまりにも薄情なのに腹を立てて挙兵した。しかしこれはあっさり失敗に終わり、近江の琵琶湖に逃れたものの、そこの船上で殺された。またこれに関係していたとして淳仁天皇を廃して淡路島に流した。
日本歴史の中で女性で天皇になった人(女帝)はそれまでにも推古、皇極、斉明、持統の四帝あるが、一人で孝謙と称徳と二度も皇位についた女帝はこの天皇が始めで終わりでもある。
前からの行きがかり上から多少気がかりにもなっていた仲麻呂がいなくなったので称徳天皇は今度は誰に遠慮気がねもなく道鏡を熱愛した。もう六〇歳に近い仲麻呂より五〇歳に満たない道鏡の方は抱き心地もよかったのだろうし、その品物も月とすっぽんの違いがある立派なものであったためである。
当時、京都の街の下世話に「称徳天皇は道鏡に膝が三つあるので驚いた。両膝の間にもう一つの膝があり、それがぴくぴく動いていた」というのである。そんな話がおもしろおかしく伝えられて、やがて道鏡の巨こん説が生まれてきたのである。 医家によると、それは根據に乏しい思い込みにすぎないらしいが、男性のそれはいざというとき小さいよりは大きい方が良いと一般には信じられている。道鏡のそれは超大型であった。しかも若いとき葛城山で修行したとき滝水をかけて鍛えたのでちょっとやそっとでダウンしない逸物だという噂話もされたという。
天皇位に重祚した称徳天皇は在位六年間、その間道鏡は天皇の寵幸にこたえて精一杯頑張った。しかし、タフな女帝もさすがに疲れたのだろう。宝亀元年(770)の八月、53歳でなくなられた。
ワンマンの女帝がなくなってからの道鏡は孤立無援になった。そして前記したように下野国に追われてなくなった。


愛知県の小牧市田県町に田県神社というお宮がある。このお宮では毎年三月十五日に豊年祭を行っているが、仲々おもしろい祭りである。巨大な陽こんを御輿に乗せ、また大小のそれを抱いて街中を賑やかに練り歩くのである。
人間、男なら誰でも持っている陽こん。それこそは人類と子孫の繁栄のために欠かせない大切なものである。だからいつまでも丈夫で立派にしゃんとしていて欲しいという願いと、子孫家系の拡大繁栄への祈念が、やがて農作物の豊作、商売繁盛までを願う田県神社の豊年祭になったのである。
さて、田県神社の祭神は、御歳神と玉姫命であって、いかに巨こんとはいえ道鏡は入っていない。

【補遺】- 編者による

道鏡を祀る神社は、道鏡の名誉のためにも追記しておきますが、栃木県と群馬県の境にある「金精峠」なる所がありますが、そこに「金精神社」というものががあるそうです。
説によると、道鏡、一物の重さ故上野国より下野国への峠越えはとても厳しいものであった。そこで、自分の男根を切り落としてしまったとも、又、孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれているそうだ。
その切り落とした道鏡の男根を「金精様」として峠に祀ったのが、金精神社の始まりとされているそうだ。
これは、尾びれの付き過ぎた話なのでしょう。想像するに道鏡のたまたま裾端から見えた褌の隙間に、その一物を垣間見た村人が、そのすばらしさのご利益にあずかろうと後々金精様を祀ったのでしょう。


注: この原文は、「三平のつれづれ草」・北国新聞社刊、にて書いたわが父平蔵の随筆から引用したもので、挿絵は当方が勝手に入れたものです。
   挿絵は女帝(上皇)と高僧ということで、当時の肖像画などを調べても、熟年王朝大ロマンス絵巻なるイメージが沸いてきません。 かわりに、
   ストリーと少し違っておりますが、若き僧と内親王のラブ・ロマス風のものを入れてみました。道鏡の画像作者は、若き修行僧をイメージして美男子に描いています。

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